今までの歩み

STORY 1

コンサルティングという仕事との出会い

子どもの頃の経験から、自らの「役割」を見つけるまで

子どもの頃の想いが、その後の活動の原点に

小学3年生のときに、学校の先生に進められて何気なく書いた作文が「拓殖大学ユネスコ協会会長賞」を受賞。それが、子ども心に「ユネスコって何だろう?」と興味を持ち地球全体を考える視点を持つようになった瞬間だった。中学生のときには、“人生をかけて解くべき課題”として、3つの問いを思いつく。「時間が流れ始める前の時間とは、どんなものなのか」「宇宙は少しずつ膨張しているというが、宇宙の外側はどうなっているのか」、そして「人間にとって一番大切なこととは、何なのか」。SF映画の流行に影響された感性だったが、「三次元にいて文系の自分には、最初の2つはわからない」と、さっさとあきらめてしまい、3つめの課題については「まだ自分は子どもなので、とりあえず『生きていること』としておこう」と考えた。生涯をかけて解くべき課題と出会った瞬間だった。

父と恩師の死により国際貢献活動から中小企業診断士へ進路を転換

その後高校、大学と進むにつれ、そもそも人間が生きるための条件が国によって大きく違うことに疑問を抱き、途上国支援を自らのテーマとして考えるようになる。国連の職員を夢見て大学院への進学を決めた新谷だったが、大学院合格発表の翌日、胃がんで闘病中だった父親が死去。就職活動期間を過ぎていたこともあり、いったんは大学院に進学したものの、ひとりっ子で母親の生活を支えるためもあって、修士1年の秋ごろからは大学院を休みがちになっていた。
大学院復帰への思いは持ち続けていたものの、修士2年目には、途上国支援の道を熱心に応援してくれていた担当教授も他界。大きな扉が目の前で音を立てて閉まった感覚がした。将来の目標を見失った新谷は、予備校講師のアルバイトなどをしながらそれから数年間、自らの道を模索し続けた。
そんな生活の中で、自分を語るものが何もないことに焦りを感じた新谷は、多少興味があった中小企業診断士の試験を受けることに。その実習の場で、模擬経営診断を行った会社役員から感謝され「これは役に立つ仕事なんだ」と痛感。経験も人脈もなかったものの、本格的に中小企業診断士の仕事に専念することを決意した。

STORY 2

中小企業支援の現場でコンサルタントとして活躍

熱意と努力を武器に、「カネなし・コネなし・経験なし」の状態からビジネスを切り開く

経験も人脈もないスタートから独立翌年には大阪市特別診断員に選任

同期合格した女性診断士と意気投合した新谷は、大阪市内に事務所を出す話で盛り上がる。その1週間後には2人で物件を見に行き、あっという間に開業。思いがけず、独立コンサルタントとしての毎日が始まった。
そもそも担当教授が亡くなったことで、大学院のゼミも解散しており、企業への就職の道は閉ざされていた。新谷自身も当初から一般企業ではなく、就職するなら国連や研究所などの国際機関を考えていたことから、独立することにさほど迷いはなかった。
何もないところからスタートしたからこそ、新谷にとってはチャレンジとアイデアを試す機会だった。とにかく声をかけてもらった業務を100%やる、という姿勢で少しずつ仕事を開拓。診断士1年目で個人店舗診断の件数は100件を超えるまでになった。
いわゆる3なし(カネなし・コネなし・経験なし)状態での独立開業で、毎日が悪戦苦闘の連続だったものの、常に全力投球のきめ細かい対応が評価され、独立の翌年には、当時最年少・女性初の大阪市特別診断員に選任。女性活躍ブームの波も幸いし、講演・執筆・経営支援の多様なコンサルティングを手掛けることとなった。

仮説立案を叩き込まれコンサルティングの魅力に開眼

「来るもの拒まず」の姿勢で取り組んでいた新谷は、建設業の経営事項審査の点数シミュレーションから、生活商品開発のマーケティング会社のための市場調査まで、さまざまな案件を担当した。中でもとりわけ多かった商店街や個人店舗の診断業務の経験から、新谷は当時の成長分野であったショッピングセンターの調査業務に興味を覚え、ボイスリサーチという居住者調査によるマーケティング支援サービスを思いつき、営業を開始した。
一方で、独立系コンサルティング・ファームとも専属コンサルタントとして契約し、活動領域が広がっていく。同社が独自のSFA(Sales Force Automation;営業支援システム)を開発していたこともあり、ハウスビルダーや金属商社など、中堅企業の営業支援に取り組んでいった。営業出身ではない新谷は、そこで優秀な上司と出会い、仮説立案の重要性を叩き込まれ、コンサルティングの面白さに目覚めることとなる。
その後、運命の分岐点は思いがけない形でやってくる。営業活動が奏功し、大手チェーンの本部からボイスリサーチに関する問合せが来たのと、コンサルティング・ファームから大手生命保険会社の営業社員向け教育研修体系の整備の依頼が来たのがほぼ同時期だったのである。
業務のあまりの大きさにどちらか一方の選択を迫られたときに、17年飼っていたペットが思いがけず病気で亡くなった。ひとりっ子の新谷にとって、きょうだいのような存在だった愛犬を亡くし、生命の尊さに改めて向きあったこともあって、コンサルティング・ファームに正社員として関わり、生命保険会社の支援に取り組むこととなった。

STORY 3

PPP分野のリーディングカンパニーへ

指定管理者制度初期から本格的にパブリックビジネスに取り組む

偶然から始まった指定管理との出会いが現場重視の姿勢で拡大

さまざまな経験を積んだのち、再度、契約コンサルタントに戻り事務所を立ち上げた新谷のもとに、ファーム時代の知人から、指定管理者制度に関するコンサルティングの依頼が寄せられた。また新しい運命の扉が開いた瞬間だった。
現場に足を運び、職員と一緒にアイデアを練った新しいサービスが認められ、利用者が喜ぶ姿を目の当たりにした新谷は、PPP(官民連携)が人々の暮らしに大きな影響を与えることを実感し、新しい事業ドメインにすえることを決意した。
当時は全国で指定管理に関する情報が少なく、民間との競合に負けた外郭団体の職員が命を絶つ事件なども起こった。父親を若くして亡くしていた新谷はショックを受け、情報発信の重要性を痛感。全国の指定管理情報が無料で見られるポータルサイト「BestPPP!(ベスピィ)」を全額私費で開設した。外郭団体と民間企業が適切に切磋琢磨しあう競争環境を産み出すことで、ムダなコストの削減と住民サービスの向上を図ることに注力。気が付くと、活動範囲は札幌~宮崎とほぼ全国に拡大し、担当案件数も150件を超えるようになっていた。

進化するPPP関連事業に対応し、PFI支援でも実績を積む

その後、徐々に業務範囲を広げ、2009年からは民間の資金とノウハウを活用して、設計・建設・維持管理・運営を包括的に行うPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)のコンサルティング業務も開始。クライアントのPPP全般の推進支援にも携わり、組織改善やサービス向上など経営全般に関わる機会も増えてきた。いずれも、診断士としての中堅・中小企業支援と指定管理の現場支援で培った経験を活かし、ハコモノだけではない、運営主義・機能主義の視点を重視してコンサルティングを展開している。

STORY 4

PPP支援からまちづくり全般の支援を見据えて

遠い将来を見ながら「半歩先」のあるべき姿を目指す

新しいPPPのあり方を模索し、運営主義・機能主義の視点から地域を支援

この頃から、公募する自治体側のアドバイザリの機会も増えてきたが、優秀な民間事業者を集めやすい制度設計や適切にモニタリングする事業評価など、コンサルティング領域はより拡大していく。現場の声を大切にし人口数千の町や村の自治体にも喜んで飛んでいく新谷は、その自治体の課題やニーズに合わせて、それまでに培ってきた経験とノウハウを駆使し制度を柔軟に活用する支援ができることが、この分野にずっと関わってきた者ならではのおもしろさだと語る。

本当に地域のためになる「まちづくり」とは何か

現在、日本全国の地域社会が抱える問題はほぼ共通している。人口が急速に減少するなか、高度成長期に作られたインフラが朽ちていき、「どのように、うまく縮退していくか」が課題となっているのだ。
そうした流れの中、ブレインファームでは一貫してハード主体でもなく、イベント中心でもない、“機能主義”に基づくまちづくり・施設整備を支援してきている。一過性のイベントや賑わう場所づくりで話題となるだけで終わらず、継続的な予算確保の方法も含め仕組みとして回っていく形になっているか。そうでなければ、本当の地域活性化につながらないのではないか――。新谷はそう指摘する。
「そのまちに住む人々にとって、どんな機能こそが必要なのか。それを仕組みとして整備するには、何が必要なのか。今だけではなく、10年後・20年後に暮らす人々を感じながら、そのまちに必要な機能をどう維持しどう整備するかのお手伝いがしたい」。新谷が心がけているのは、そうした本当に地域のためになる「まちづくり」の視点からの提案だ。

STORY 5

本質を見据えたSDGsの推進へ

自らの経験を活かし、持続可能な社会を目指し続ける

東日本大震災をきっかけに目覚めた地域が稼ぐための観光振興

PPPの業務の傍らで、途上国支援を胸にバングラデシュのスタディツアーに申し込んでいた新谷だったが、東日本大震災で宮城県のクライアントが甚大な被害を受けたことをきっかけに国内支援に専念することを決意。旅行業務取扱管理者の資格を取り、自分のノウハウが活かせる貢献策として、小さなまちが稼ぐためのきめ細かい観光振興に取り組みはじめた。PPPと観光振興の両輪で、「小さなまちの応援団」として、全国を駆け巡った。

東日本大震災から10年目に始めたSDGsへの取り組み

東日本大震災が勃発して10年目となる2020年、新谷は再び途上国支援にも目を向け始めた。きっかけは、たまたま体験したSDGsカードゲームだった。SDGsの取り組みに触れることで、新谷は改めて途上国への視点も持ちつつ仕事をすることが自らのライフワークのひとつだと強く認識した。すぐさま、「2030」と「地方創生」の2つのSDGsカードゲームファシリテーターの資格を取得し、SDGsの考え方を世の中に広めていく活動を始める。

企業経営やまちづくりで今後求められる、サステナブルな視点の重要さ

SDGsは、地方創生やまちづくりでも重要なテーマとして位置づけられている。
新谷はいま、学生時代から培ってきた途上国支援の知識とコンサルタントとして磨いてきたPPP支援の経験を活かし、中小企業や自治体に向けたPPP×SDGsの推進活動にも取り組んでいる。
しかし、SDGsに対してただアイコンを掲げるだけの状態に終わっている企業も少なくない中、「『誰でもトイレ』を作ろうといった表層的なことに終わらないでほしい」と新谷は語る。
「SDGsに取り組む上では、経済学者の斎藤幸平氏の『SDGsは現代のアヘンである』という言葉に真摯に向き合わなければならないと思います。SDGsを語ることで、すでに何かに貢献しているつもりになってしまい、本当に必要な意識変革・行動変革は何か、ということを考える機会をなくしている可能性もあるからです」。表層的ではない真の持続可能な取り組みの重要性について、新谷はこれからも広く伝えていくつもりだ。

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サステナビリティへの取組み

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